新説・日本書紀㉑ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)10月27日 土曜日
一方、魏志倭人伝は正しくは、『三国志』巻三十・魏書三十・烏丸鮮卑東夷伝の倭人条である。本文には確かに「倭人伝」がある。だが、三国志の魏志目録には「倭人」がなく、代わりに「僂韓」とある。僂は「背の曲がった」という意味で、僂韓は「背が低い韓人」の意であろうか。この小さな事実と合わせても、三韓征伐は倭国内で行われたことにならないか。すると、神功の唯一の海外遠征は新羅征伐のみということになる。 『神功皇后の戦略』によれば、豊前市子犬丸に、「神功皇后、船材を吉木村より運び給い、親ら石上に立ちて軍船の造営を督し給う」とあり、同山内の嘯吹八幡神社の旧記に、「神功皇后、吉富津(吉富の広津)に打出させ給いて、御船を造らせ給う」とある。船材を得た場所は、北九州市八幡西区の帆柱山を始め、数多くの伝承地が残る。 津波に乗って新羅制圧
軍船を豊浦宮に集めた神功は、いよいよ出陣する。その時、何本もの幡が生じたと生野神社の伝承にある。そこを幡生という。 再び、洞の海を抜け岡の海に入った。この時、神功は臨月に当たっていた。石を取って腰に挟み、「事を終えて帰還する日に、ここで出産させてください」と神に祈った。その石は「今伊覩県の道のほとりに在り」とある。糸島市二丈深江の鎮懐石八幡宮の伝承でもある。だが、筑紫風土記には「お腹の子がそろそろ動いた」と記してあり、妊娠5カ月ころのことのようだ。子安神に安産を祈り、石でお腹をさすったようだ。この時、伊覩県はまだ遠賀湾沿岸にあった。神に祈った場所は未詳だ。 冬10月、和珥津(遠賀町鬼津)を進発。順風満帆、新羅に到る。「時に随船潮浪、遠く国の中に逮ぶ」と書紀は記す。どうやら神功軍は偶然に起きた津波に乗って新羅の都まで進軍したようだ。新羅の王は戦慄して人々に、「新羅の建国以来、未だかつて海水が都にのぼったと聞かない。天運が尽きて国が海となろうとするか」と言った。神国の神兵には勝てぬと、白旗をあげて降伏した。 新羅王波沙寐錦は微叱己知波珍干岐を人質に差出し、金銀や種々の珍宝、絹織物などを神功軍の80艘の船に運び入れた。これ以後、新羅王は常に「八十船の調」を日本国に朝貢することになった。続いて、高麗・百済の2国の王が、おそれて朝貢してきた。 こうして、神功は新羅より帰還した。ところが、橿日宮と豊浦宮に還らず、福岡市姪浜に上陸したようだ。書紀には12月14日に「譽田天皇(応神)を筑紫に生れたまふ。故、時の人、その産処を号けて宇瀰と日ふ」とある。 次回は11月10日に掲載予定です